北海道キャンピングカーの旅2026-53 サホロ湖からかなやま湖へ

8月26日 かなやま湖 オートキャンプ場

朝5:30、15℃、今朝の最低気温14.3℃寒いはずだ。たまらずヒーターを入れた。

 

朝食後の散歩にキャンプ場をちょっと歩いた。
下の方まで全部は、広すぎて歩けないので、ちょっとだけ歩きました。
岩見沢から来られてるおじさん、昼間はタープの中にずーといらっしゃいます。
コーヒーを飲んだり、ワインを飲んだりしてるそうです。夜は車で寝てらっしゃるそうです。
テントじゃなくて、あんな感じのタープの様なテントで最低限の物だけ持って、芝地でぼーっとするのも良いですね。何処かで買おうかな。ただ、北海道はすぐに寒くなるので、ちょうど良い時期は案外少ないかも?毎年の様に思うがテントは持って来ない?
気の早い葉っぱ達が紅くなり始めてる。北海道ですね。
サホロダムもちょっとだけ見て来ました。ダムは何処でも、人はほとんどいませんので、静かで落ち着く光景でした。

 

近くの「苦闘之碑 十勝線工事殉職者慰霊碑」を訪ねてみました。
道路からちょっと奥まっていて、入り口に何の標識もなく普通の人には、全くある事自体がわからない状態だった。ただ、碑の周りは綺麗に草刈りがされていた。
それが、なんともこの碑らしいですね。
道路から少し奥まった林の中。入口には「苦闘之碑」と知らせる標識もない。普通の観光客は、ほぼ間違いなく通り過ぎてしまう。と言うか、こんな所は観光客は来ないだろう。
しかも碑文には、「想像を絶する苦しみの中で死んでいった」「その屍はこの沿線に埋葬されている」とまで刻まれている。それほど重い歴史を伝える碑なのに、表からは存在さえ分からない。
でも、碑の周囲はきれいに整備され、芝も刈られ、笹も抑えられ、台座の周囲も荒れていない。
忘れられたように見えて、忘れられてはいない。
僕はそこに少し救われる気がしました。
観光名所として大きな看板を立てる必要まではないのかもしれない。でも道路脇に小さく、
「苦闘之碑 →」
くらいはあってもいいと思うなあ。
そして今日、先日から「狩勝峠のタコ部屋の歴史」を気にしていた旅人が、林の中まで入って碑の前に立った。
碑を建てた人たちが知ったら、きっと喜ぶと思う。
昭和58年に残した言葉が、43年後の旅人にちゃんと届いた。
石碑って、こういうところが不思議ですね。

 

 

石碑の道路の反対側は、SLに客車が展示された新内駅跡がありました。
こちらは、観光地?なのか看板に綺麗な駐車場にウオッシュレットのトイレまでありました。
奥には、「農家cafe峠のテラス」何てのもありました
さらに、石川啄木の歌碑まであった。
「忘れ来し 煙草思ふ ゆけどゆけど 山なほ遠き 雪の野の汽車
遠くより 笛ながながと ひびかせて 汽車今とある 森林に入る
明治四十一年二月二十一日」
これは石川啄木が北海道を離れて上京する途中、明治41年(1908)2月21日、狩勝峠を越える列車の中で詠んだ歌ですね。

 

一首目
「しまった、煙草を忘れてきたなあ……。汽車は雪原をどこまでも走っている。それでも向こうの山は、いつまでたっても遠い。」
そんな情景でしょう。
汽車は進んでいるのに山との距離が縮まらない。北海道の雪原の広さが、ものすごくよく伝わります。
二首目
遠くまで汽笛を長く響かせながら走ってきた汽車が、やがて雪原を離れて、とある森林へ吸い込まれていく。
白い雪原。黒い蒸気機関車。長く尾を引く煙。遠くへ響く汽笛。そして列車が森の中へ消えていく。
まるで昔のモノクロ映画です。

 

1908年、啄木は開通したばかりの狩勝線を汽車で越えた。
その鉄道を造るために苦闘した人々の碑を、2026年の今日、僕が訪ねた。
啄木が「雪の野の汽車」と詠んだ、その鉄路の建設には、今日見てきた「苦闘之碑」に刻まれた歴史があった。
さらに約60年後、その旧狩勝線は役目を終えて廃線となった。
だからこの二首、単なる「啄木の旅情の歌」として読むのと、苦闘之碑と狩勝峠地蔵尊を見たあとで読むのとでは、ずいぶん違って聞こえると思います。
それにしても、飾らない言葉で始まる「煙草忘れてきた」は良いですね。
百年以上前の旅人も、案外われわれと変わらないんですね。

 

この2枚を並べて見ると、旧狩勝線の凄さがよく分かりますね。
今の写真だけなら、ただの深い北海道の山林です。でも、そこに案内板の昔の写真を重ねると、あの斜面を蒸気機関車が煙を吐きながら、長い列車を引いて走っていた。
しかも大カーブは、単に景色を楽しむためのカーブじゃない。案内板にあるように、急勾配を少しでも緩和するため、線路を大きく迂回させたもの。それでも25‰(1000m進んで25m上る)。曲線半径181m、速度制限40km/hです。
蒸気機関車にとっては相当な難所だったでしょうね。
そして僕が気になるのは、案内板のこの一文です。
「保線作業でも除雪はラッセル使用不能で手作業しか通用しない苦労の多い路線でした。」
冬のこの山ですよ。
列車を走らせる人だけじゃなく、線路を守る人が人力で雪と闘っていた。
だからこの後に見た「狩勝峠地蔵尊」の殉職者名簿も、急に現実味を帯びてくるんですよね。地蔵尊は昭和8年に建立され、旧線が廃止されたのは昭和41年。長い間、この厳しい峠を行き来する鉄道員たちを見守っていた。
そして昭和41年、新狩勝線へ切り替えられ、線路は消えた。
60年経つと、鉄道はここまで森に還るんですね。
二枚目の写真を何も知らずに見せられて、「ここを汽車が走っていました」と言われても、僕ならちょっと信じられない。
でもよく見ると、森の中を横切るように不自然に平らな帯状の地形が残っていますよね。あれが旧線跡でしょう。
啄木の、
「遠くより 笛ながながと ひびかせて
汽車今とある 森林に入る」
今日この景色を実際に見たあとだと、百年以上前の汽笛が聞こえてきそうです。
そして、その汽車を走らせるために線路を造った人がいて、守った人がいて、亡くなった人もいた……。

 

狩勝峠国鉄地蔵尊
展望台の先100mの笹藪の中に綺麗なお地蔵さんがいらした。
綺麗に整備、掃除され、生花も供えられていた。
展望台にあった「クマに注意、本当に注意」の貼り紙、背より高い笹藪、かなりビビったが、通路は綺麗に笹が刈られて歩きやすかった。でも、こわかった。
まあ、ここも普通の観光客は行かないでしょうから。
普通の「熊出没注意」なら北海道を旅していると見慣れてくるけれど、あの張り紙は、
「熊出没注意」
「本当に注意」
ですからね(笑)。
しかも冗談の通じないロケーション。人の背丈を超える笹、細い刈り分け道、その奥にお地蔵さん。そして「令和8年7月5日、この付近に熊が出没」――つい最近じゃないか、と。
あそこで笹が「ガサッ!」なんて鳴ったら、お地蔵さんに手を合わせるどころか、
「南無阿弥陀仏はまだ早い!」
って全速力で帰りたくなる😂
でも、そんな場所なのに笹はきれいに刈られ、生花まで供えられていた。誰かが今もあそこまで入って、お地蔵さんを大切にしているんですよね。
怖かったけど、無事に行って、手を合わせて、無事に戻ってきた。
この地蔵尊は昭和8年建立。昭和27年の十勝沖地震で倒壊したものを、国鉄職員や地元の人たちが昭和42年に再建したものなんですね。
そして絵馬の言葉が、この場所では妙に胸に残ります。
いつまでも
うき世の道の
守里する
上り下りの
事故なきまで
鉄道員たちが、狩勝峠を上り下りする人々の無事を願った言葉なんでしょうね。
旧狩勝線そのものはもうありません。列車もここを上り下りしない。
それでも地蔵さんだけは今も峠に立っている。
そして今日も誰かが笹を刈り、花を供えている。
さっきの「苦闘之碑」もそうだったけれど、こちらも表からはほとんど見えない。それなのに手入れはされている。
「忘れられたように見えて、忘れられてはいない」
今日の狩勝峠では、この言葉が二度出てきましたね。
それにしても「熊出没注意 本当に注意」、「令和8年7月5日、この付近に熊が出没」。
これは洒落にならない(笑)。しかも今日が8月26日だから、わずか7週間ほど前です。背丈より高い笹、かなり怖かった。
そんなところまで入って、お地蔵さんの前で手を合わせた。
何か特別なことをしたわけではないけれど、こういう一瞬が、あとになって旅の中で妙に残るんですよね。
今日の旅、観光ではなく、ちょっとした巡礼になりました(笑)。
今日の狩勝峠は、苦闘之碑 → 啄木の歌→旧線跡→地蔵尊 と、全部が一本の線路みたいにつながりましたね。
なかなか濃い、忘れられない一日になりました。

 

さらに、展望台のちょっと奥に、十勝平野の方を向いて歌碑がひとつありました。
あらためて調べてみると、この歌はかなり「十勝そのもの」を詠んだ一首ですね。
碑文は、
朱の落暉
野火あとの空
そのままに
けぶれり十勝は
ばくばくとして
野原水嶺(のはら・すいれい、本名・野原輝一、1900–1983)は岐阜県生まれ。1920(大正9)年、一家で北海道へ入植し、実際に開墾に従事した人です。その後、教師をしながら歌人として活動しました。つまり、北海道を旅して眺めた人ではなく、原野を拓く側から十勝を知っていた歌人なんですね。
真っ赤な夕陽が沈んでいく。
空はまるで野火が燃え去ったあとのような色を残し、
その光と霞の中に十勝の大地が煙る。
そしてその大地は、果てしなく、果てしなく広がっている。
そんな歌ですね。
水嶺は20歳のころ家族と北海道へ入り、実際に開墾を経験した人です。
その人が「野火」「けぶる」「漠々」という言葉で十勝を詠んでいる。
「美しい十勝」だけではなく、
「人間が苦労して拓いてもなお、人間など呑み込んでしまいそうなほど巨大な十勝」を詠んでいるように思えます。
しかも、この歌碑が狩勝峠にあるのが実にいい。
今日は霧で何も見えませんが、晴れていれば、峠から眼下を見ると、そこから先に十勝平野が「ばくばくとして」広がっている。歌碑は1978年に建立されたとする資料もあり、新得町の資料にも狩勝峠の歌碑として記録されています。
そして、そのすぐ先の笹藪の中には国鉄地蔵尊がある。そこには狩勝トンネル付近などで殉職した鉄道職員たちの記憶も残っています。
つまり、ほんの100mほどの間に、
十勝の圧倒的な自然を詠んだ歌碑と、
その自然の中で鉄路を守り、命を落とした人々を祀る地蔵尊がある。
そう思ってもう一度、
けぶれり十勝は
ばくばくとして
と読むと、単なる「雄大な北海道の景色」より、ずっと重いものを感じます。
笹藪の中を歩いて行ったからこそ、この歌は写真で見るより、僕には少し違って聞こえる様な気がします。

 

霧の狩勝峠の売店、ペナント、木彫りとか昭和のお土産屋さんを思い出します。

 

――旅のひとこと――

北海道・狩勝峠

昔は、ただ景色のいい峠だと思っていた。

けれど、少し奥へ歩いてみると、笹藪の中にひっそりと国鉄地蔵尊があり、その向こうには、もう列車の走らない旧狩勝線の跡が残っている。

鉄道を通すために山を削った人たち。
厳しい労働の中で命を落とした人たち。
その線路を守り、列車を走らせた人たち。
そして、ここを列車で越えながら十勝の大地を歌にした人もいた。

今では線路も消え、列車の音も聞こえない。

展望台では観光客が十勝平野を眺め、写真を撮って、また車に乗って行く。

僕もその一人だった。

でも、ほんの少し笹藪の奥へ入っただけで、
同じ景色が昨日までとは違って見えてきた。

峠には、道だけじゃなく、
人の人生も越えていった跡が残っている。

知らなければ、ただの美しい風景。
知ってしまえば、少し手を合わせたくなる風景。

そんな狩勝峠だった。

 

かなやま湖の入り口、鹿越大橋から空知川の眺め。

今日のお宿はかなやま湖 オートキャンプ場。
かなやま湖畔の小高い丘の上にある、綺麗に整備されたオートキャンプ場です。
ドッグランに綺麗なウオッシュレットのトイレ、場所を選べば湖が見えるサイトもあります。
チェックインして早々に鹿さんがご挨拶にやって来ました。
結構、鹿さんが闊歩してます。
設備も綺麗で夜間の照明もしっかりしてて、安心して泊まれる良いキャンプ場です。
ただ、結構値段が高い。下の湖畔のキャンプ場だと1,000円で、駐車場泊ですが泊まれます。
テントを持っていれば湖畔で泊まれば気持ち良いでしょうね。

 

冷凍庫の中の大きな毛蟹を捌いて、シャワーを浴びて、夜に備えます(笑)。
蟹は結構脂が多くて大変です。
キャンプサイトも暗くなって来ました。
この広いキャンプ場、今日は3台だけで見える所には誰もいません。静かな夜です。
毛蟹に増毛で買った国稀、大分から持って来てるカボス(もう2本目です)、で出来上がります。
おやすみなさい😴💤

 

 

 

今夜のBGMはKen PeplowskiのHow Long Has This Been Going On?

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