北海道キャンピングカーの旅2026-72 三笠から芦別へ
9月22日 芦別 緑泉公園
10時過ぎ、ゴミの処理をお願いして、キャンプ場を旅立つ。
桂沢湖脇の駐車場でひと休み、此処はSUP・カヌーの入水が出来る場所みたいです。
三段滝、駐車場がいっぱいで、止まり損ねて、行けず。
紅葉も綺麗な所らしい?次回の楽しみです。
坑夫の像、
昭和19年(1944)7月、当時の石炭統制会の要請を受け、軍需省が三井芦別鉱業所へ派遣した「軍需生産美術推進隊」の彫塑班、古賀忠雄らによって制作されたものです。太平洋戦争末期、石炭は軍需産業を支える重要資源でした。そのため坑夫は「産業戦士」と位置づけられ、士気を高めて増産を促す目的で、こうした力強い像が各地につくられました。
もともとは西芦別町の一坑・労務課外勤詰所前に建てられていました。しかし鉄線入りコンクリート製だったため、半世紀を経て著しく傷み、崩壊寸前になったそうです。そこで平成8年(1996)、地元の元炭鉱マンたちが「坑夫の像保存会」を結成。原像の修復は困難だったため複製像を制作し、平成9年(1997)5月11日、三井芦別炭鉱終焉の地・頼城町(二坑)に建立した、というのが現在の像です
手前の大きな五芒星の巨大な星は三井のマークではなく、後年の芦別の「星の降る里」イメージに合わせた公園整備の意匠だと思われます。芦別市は現在も「星の降る里」を地域イメージとして使っています。
三井芦別炭鉱ニ杭神社跡、
炭鉱が栄えていた頃、ここは坑内の安全と、働く人々の無事を祈る場所だった。正月には炭鉱の人々が山神に参拝し、一年の無事故を願った。
炭鉱は閉じ、人は去り、社殿は崩れ、参道も草に埋もれた。
それでも、錆びた鳥居だけは残っている。
ここに炭鉱があり、
ここに町があり、
ここで明日の無事を祈った人たちがいた。
そんなことを、静かに教えてくれる場所です。
この二坑神社は、立派に保存された炭鉱遺産とはまた違うんですよね。消えかけているからこそ、炭鉱町が本当に消えていった時間が見える。「人が去ったあとに残ったもの」の一つだと思います。
頼城街をチェック、
頼城は三井芦別炭鉱二坑の炭住街として栄えた場所で、閉山は平成4年(1992)。それから30年以上経っていますが、旧炭住系と思われる住宅や改良住宅に今も人が住み、庭を手入れし、畑を作って暮らしている。市の記録でも、頼城地区では住宅の移転集約の際に「この場所から移りたくない」「同じ地区に住みたい」という住民が多かったことが記されています。
そして面白いのが、この頼城共同浴場。これは廃墟ではなく、2026年現在も現役です。通常は16時30分〜19時30分、水曜・日曜休みで営業していて、今も、ちゃんと地域の生活を支える「お風呂」なんですね。
これを見ると頼城は、単純な「炭鉱が消えて町も消えた場所」ではない。
炭鉱はなくなった。
でも、炭鉱がつくった町には、まだ人が暮らしている。
そこが、万字や美流渡とは少し違うところですね。
炭住らしい長屋、広すぎる道路、空き地。その中に洗濯物があり、庭木があり、畑があり、そして夕方になると共同浴場に人が来る。
二坑神社は森へ戻ろうとしているのに、そのすぐ近くでは今も普通の暮らしが続いている。
なんだか頼城では、「炭鉱町の跡」を見ているというより、「炭鉱がなくなった後も続いている町」を歩いている感じがしますね。
ーー旅のひとことーー
北海道・芦別 頼城
炭鉱は、三十年以上前に閉じた。
町もずいぶん変わった。
それでも頼城には、まだ人が暮らしている。
昔の炭住らしい家に灯りがつき、
庭には花が咲き、畑には野菜が育つ。
そして夕方になれば、
今も共同浴場の暖簾が上がる。
町の片隅では、
二人の坑夫が今も同じ方向を指さしている。
かつて、この山の奥には坑道が伸び、
人が入り、石炭を掘り、町を支えていた。
その時代を知る人も、少しずつ少なくなっていく。
けれど、この像が残っているかぎり、
ここに炭鉱があり、
ここで働いた人たちがいたことは消えない。
炭鉱はなくなった。
でも、町まで一緒になくなるわけではない。
今も二人は黙って山を見ている。
その足元で、普通の暮らしが続いている。
それが何だか、うれしかった。
旧頼城小学校、
旧頼城小学校は、炭鉱町・頼城の歴史をそのまま背負った学校ですね。
碑によると、1908年(明治41)に芦別尋常小学校第二分教場として開設。その後、頼城尋常小学校、頼城国民学校、頼城小学校と名前を変えながら、炭鉱町の子どもたちを送り出してきました。
三井芦別炭鉱が栄えるにつれて児童も増え、校舎の増改築や新校舎建設が行われています。一方で、炭鉱の衰退と人口減少に伴って児童数も減り、2002年(平成14)に閉校。約94年の歴史を閉じました。
校歌の碑には、
「花や紅葉に守られて
石炭の谷 頼城の
我が学舎は 山ふところに」
とあります。
まさにその通りで、学校は山に抱かれるように残っています。
今は「星槎大学」の表示が見え、建物自体は次の役割を与えられている。そこが、この場所のいいところですね。
炭鉱は閉じた。
小学校も閉じた。
でも、建物まで死んだわけではない。
頼城は、消えた町というより、姿を変えながらまだ続いている町なんだと思います。
旧三井芦別鉄道の炭山川橋梁は、頼城の炭鉱景観を今に残す代表的な遺構です。
三井芦別鉄道は、三井芦別炭鉱で採れた石炭を運ぶための専用鉄道として整備されました。案内板によれば、1940年(昭和15)に芦別駅―西芦別間が開通し、二坑・頼城の開発にともなって延伸。炭山川橋梁は1945年(昭和20)12月に完成しています。
橋の長さは約94m、高さは川床から約32m。鉄筋コンクリートの橋脚と鋼製桁を組み合わせた、かなり堂々とした橋です。終戦直後に完成したというのも、この炭鉱開発の勢いを感じさせます。
その後、三井芦別鉄道は長く石炭輸送を担い、1989年(平成元)に廃線。現在は橋の上にディーゼル機関車と石炭貨車が保存され、往時の姿を伝えています。
この橋梁は国の登録有形文化財で、さらに日本遺産「炭鉄港」の構成文化財にもなっています。
現地で見ると、単なる古い橋というより、
「山から石炭を町へ、町から外の世界へ運び出した道」
そのものですね。
森の中に線路と機関車がそのまま残っているので、頼城の炭鉱町がまだ少しだけ動いているように見える場所です。
三井芦別炭鉱殉職者慰霊碑、
三井芦別炭鉱で亡くなった坑夫・関係者を慰霊するため、平成16年(2004)10月に建立された碑です。碑文には、昭和14年に三井鉱山の芦別鉱業所が開設され、その後一坑・二坑を中心に発展したこと、そして閉山まで長く石炭を掘り続けた歴史が刻まれています。背面には多くの殉職者名が並び、炭鉱の繁栄の裏にあった犠牲を伝える碑になっています。
石炭産業 無名殉難者慰霊碑、
こちらは、名前を残すことのできなかった炭鉱関係の犠牲者を慰霊する碑です。特に、厳しい労働環境の中で亡くなった人々、故郷や家族への思いを残したまま命を落とした人々への鎮魂の意味が強い碑です。背面には、
「厳しく困難多き時代に、過酷な環境下、心ならずも殉難された多くの方々…」
とあり、個人名の有無にかかわらず、炭鉱を支えたすべての犠牲者を忘れないという気持ちが込められています。
二つ並んでいる、名前が残った人の碑と、名前さえ残らなかった人の碑。
炭鉱町の歴史を見るとき、坑夫像や鉄道橋のような「働いた証」と一緒に、この二つの慰霊碑を見ることで、石炭産業の明るい面だけではなく、その陰にあった重さまで見えてきます。
西芦別チェック、
西芦別は、頼城とはまた少し違って、「炭鉱町のあと」と「今の暮らし」が同じ場所に重なっている町ですね。
古い商店らしい建物はシャッターが下り、外壁も傷み、もう廃墟に近いものもある。
その一方で、広い敷地には今も大規模な炭住がまとまって残り、さらにその近くには新しい住宅も建っている。
だから町全体が「廃墟」ではない。
炭鉱時代の骨格を残したまま、
使われなくなった建物もあり、
住み続けられている家もあり、
新しく建てられた家もある。
昔の町を保存しているわけでも、
すっかり消えてしまったわけでもない。
古いもの、朽ちかけたもの、新しいものがごちゃっと混ざって、それでも人が暮らしている。
西芦別を歩いていると、炭鉱町の「終わり」を見ているというより、
炭鉱がなくなった後も、町がどうにか続いてきた時間そのものを見ている感じがします。
頼城もそうでしたが、西芦別もやっぱり、
町はまだ生きている。
昔の炭住。
閉じた商店。
広い空き地。
そして、新しく建てられた家。
全部が同じ風景の中にある。
炭鉱の町は終わったのかもしれない。
でも、西芦別という街は終わっていない。
そんな感じがしますね。
小林英一記念美術館に清水武男世界空撮写真館、どちらもclosedだった。
開館日はかなり限られているようで、小林英一記念美術館は5〜10月のうち特定の金曜や週末を中心に開館、来館時は事前連絡推奨。清水武男世界空撮写真館も不定休の案内が出ています。なので、今回どちらも closed だったのは珍しくないようです。
西芦別を歩いて、炭住や古い商店、真新しい家を見たあとに、最後にこの二館が閉まっていた。
ちょっと残念ではあるけれど、むしろ西芦別らしい感じもします。
炭鉱の町だった場所に、学校が残り、
その学校が今度は美術館や写真館になる。
町は形を変えながら、まだ何かを残そうとしている。
今回は扉の向こうまででしたが、それもまた旅ですね。
オカモトセルフ芦別で給油する。別府市との違いに驚く。此処が安いのか、別府市が高いのか?両方?
お昼を「ひる川」さんでお蕎麦を頂く。バラックの様なお店でちょっと変わったお店、でも、蕎麦屋さんでした。
なまこ山総合運動公園、名前はなんとも可愛らしいが、中身は本格派。
体育館、陸上競技場、野球場、球技場と、ずいぶん立派な施設が山の裾に広がっている。
炭鉱の町を歩いてきたあとだけに、こうして今も市民が走り、球を追う場所が残っているのを見ると、芦別がちゃんと「今の町」として生きていることを感じる。
なまこ山――名前だけ聞けば小さな丘。行ってみれば、でっかい運動公園だった。
何ヶ所か大きな駐車場があるが、車中泊出来そうな感じも??
道の駅 スタープラザ芦別、車がいっぱいで、すぐに退散しました。
芦別温泉スターライトホテル&おふろcafé星遊館
芦別市街から少し離れた旭町油谷にある温泉ホテル。現在は温泉、サウナ、宿泊、星空を楽しむ施設として賑わっている。
しかし、この一帯はかつて油谷炭鉱があった土地でもある。近くには殉職者之碑や創業者・油谷晨介の記念碑が残り、今も炭鉱町だった時代を伝えている。
かつてあった油谷晨介の胸像は盗難に遭い、現在は台座だけが残っている。
それにしても、記念碑本体は残っているのに、胸像だけ無いというのは、現地で見ると妙に生々しいですね。
地下の石炭を見ていた町が、今は空の星を見る町になった。
そう考えると、このホテルも芦別らしい場所ですね。
細谷徹之助歌碑、
芦別市長として健民センターや芦別温泉の開発に尽力した細谷徹之助を顕彰し、昭和54年に建立された歌碑。
温泉をつくった人が、そこで見た花と聞いた鳥の声を歌い、その歌が今も温泉のそばに残っている。
そんな碑なんですね。
蘆別神社、
芦別開拓期の明治29年に始まり、現在は天照大御神を祀る市街地の古社。境内には忠魂碑、ノモンハン事件参戦40周年記念灯籠、昭和44年奉納の狛犬、稲荷社の狐などが残り、開拓・戦争・地域信仰が同じ境内に積み重なっている。
新しい狛犬は均整が取れ、狐も巻物と玉の正統派。
一方、終戦の翌年に建立された、馬上の武将像は由来不明のまま、半ば割れながら今も立っている。
綺麗に整ったものと、壊れかけた記憶が同居する。そこが蘆別神社の面白さだと思います。
芦別駅、
炭鉱の最盛期には、多くの人と物資を送り出した町の玄関口。
炭鉱が消え、町が小さくなり、列車の本数も減った。
2時間に一本。
それでも、線路は途切れていない。
列車は今日も芦別を通り、滝川へ、富良野へ走っていく。
町が変わっても、鉄道はまだ走り続けている。
今まで見てきた万字線や三井芦別鉄道の「もう列車が来ない線路」と比べると、ここはその違いがものすごく大きく感じますね。
頼城共同浴場、
本当は芦別温泉スターライトホテル&おふろcafé星遊館に入るつもりだったが、あまりの人と車の多さに怖気づいて断念。
代わりに、頼城共同浴場へ。
入浴料は500円。
思っていたよりもきれいで、立派なお風呂だった。
地元の人たちに混じって湯船に浸かっていると、炭鉱町が賑わっていた昔へ、少しだけタイムスリップしたような不思議な気分になる。
豪華な温泉ではない。
でも、ここには今も町の暮らしが残っている。
予定外だったけれど、むしろこちらに入ってよかった。
旅の中でも、なかなか得がたい経験になった。
今日のお宿は緑泉公園、公園の前には、今は広い草地が広がっている。
けれど、この辺りはかつて三井芦別炭鉱の炭住街だった場所。木造の長屋や集合住宅が並び、多くの炭鉱マンと家族が暮らしていた。閉山後、住宅は次第に姿を消し、今では建物のない広い空間だけが残っている。
公園の近くには、旧緑泉駅や旧頼城小学校も残る。
今はただの広い草地に見えるけれど、
昔はここに家があり、道があり、子どもの声があった。
何もない場所ほど、昔の町の大きさを想像させる。
そんな場所ですね。
道路の側の駐車場ですが、車も少なく静かに、ゆっくり眠れそうです。
今夜も独りぼっちで、ウイスキーとミュージックだけが仲間です。
お休みなさい💤🌙
おまけ: 北海道炭鉱閉山の歴史










































































































